社会人を経験してから大学院に入る (7) コミュニティの活動への参加
働きながら大学院に通うのは時間的にも体力的にも大変だ。
だけど、もし、
資格さえ取れれば良いから、キャンパスには専門科目を受けるためだけにしかいかないし、先生と専門的な話ができれば良い…
…みたいな考え方を持っているとすると、それはとてももったいないと思う。
私は何人かの社会人学生の人に会ったことがあるけど、さまざまな理由から他の大学院生との関わり方が限定的になってしまう人を実際にお見かけする。
もちろん、仕事をしながら通うからキャンパスに滞在できる時間が限られてしまうのは仕方ないことだ。
また、自分より年齢の若い人たちと一緒に活動するのは気が引けるということもあるだろう。
ただ、大学院の研究活動では、授業を履修するだけでなく、研究室の先生や他の学生と切磋琢磨したりする時間がとても大切だと思う。
Lave & Wenger (1991)の状況的学習の例のように、そのコミュニティ(研究室)の活動を通して、新人であれば、その分野の専門知識や技術だけでなく、考え方、価値観、ネットワークに触れることができる。
例えば修士1年生は研究室というコミュニティの新人で、博士課程の学生は古参者になる。
新人は入学当初は古参者の発表を聞くだけのところから始まる。
そのうち徐々に自らも研究会で発表する機会を得るようになったりする。
研究発表では指導教員からも助言をもらえるかもしれないし、研究室によってはその比重が大きいところもあるだろうが、先輩たちからも助言をもらうこともあるだろう。
あるいは先輩から手解きを受けながら研究発表の準備をするかもしれない。
別の機会では、先輩たちと一緒に研究発表をするということもあるかもしれない。
そんなことを何回か、何年かを繰り返していくうちに、知らず知らずのうちにその研究室の考え方や価値観、技術が身についていく…
(同じ研究室の人は同じような服装をしていたり、話し方をしていたり、よく似た雰囲気をまとっている、なんてこともよくある)
この何かの専門性を身につけるという過程は年齢に関係なく、社会人学生でも同じではないかと思う。
(仮に、バーチャルな学び方をするとしても、バーチャルな「コミュニティの活動」があるはずだ)
貴重な機材を共有する理系研究室と違って、人文系には機材や道具を使わなくても良い研究分野も多い。
必然と個人プレーになることも多く、「コミュニティ(研究室)の活動」自体が存在しない分野もあるだろう。
また、研究室の活動があったとしても「一匹狼」という人もいるかもしれない。
でも、たとえ一匹狼的な人であっても、立派に研究者として活動している人は何らかのネットワークは持っている。
例えば、同じ指導教員のもとで学ぶ大学院生の研究会はなくても、もう少し広い括りでよく似た研究テーマを持つ人同士の研究会みたいな。
前述のように先輩となる人から具体的に教えてもらうことはなくても、間接的だったり、見よう見まねで学ぶ機会を持っている。
何かの知識を身につけるなら、論文や専門書を読めばいいんじゃないか、みたいな考え方はあるだろう。
論文や本を読まない人よりは全然悪くない感じはする。
でも、最初の一歩はどうやって踏み出す?
とても良いことを思いついたとして、それをどこで、どうやって発表するのかな?聞いてくれる人はいるのだろうか?
そもそも「最初の一歩」ってなんだろう?「何か良いこと」という価値基準はどこからでてくるんだろう?
その論文を読んだ「解釈」は他の人にも納得してもらえるのかな?
学内外のコミュニティの活動を知りながら、自主的にゆるく、消極的に参加するということと、コミュニティの存在や活動内容を知らないということには大きな隔たりがある。
コミュニティの活動への参加は必ずしもどかんとセンターに陣取らないといけないということはない。
端っこの方で非積極的に参加するという方法もある。
また一つのコミュニティにずっと居続けなければならない…ということもない。
(合わなければ別のところに行けば良いし、複数のコミュニティに参加しても良い)
研究に関わらないことだが、何かの専門性を身に付けたい場合は、その「コミュニティの活動」にちょこっとでもまずは参加してみることをお勧めする。
参考文献
Lave, J. & Wenger, E. (1991). Situated learning: Legitimate peripheral participation. Cambridge University Press.
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